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Journal

大変な出来事に、プロジェクト名を付けて乗り切る

先日、慌てて小走りに階段を駆け降りようとした時にズボンの裾を踏んで前のめりにずっこけ、地面に小指を垂直に打ち付けました。「(絵にかいたようなずっこけ方をして)はっっっずーーーーーーー!!!」と思い、今起こった出来事は何もなかったかのようにふるまおうと涼しい顔で立ち上がり、それにしても痛いなとふと左手を見て、頭がフリーズしました。   左手の小指が外側に向かって90度にお曲がりになっている。   見慣れない角度に曲がった小指、脳が情報処理し切れず、二度見しました。そして二度目に角度を確認するや否や、それ以降は怖くて直視できませんでした。 90度外側に曲がった指   病院に行くと脱臼・靭帯断裂との診断で、しばらく不自由な生活が続きそうです。利き手なのでとっても不自由。食べる・書くは幼少期、右手に矯正したので、支障なくせめてもの救いですが、それ以外の動作をするたびに、今までめちゃくちゃ働いてくれていた左手に感謝の気持ちが湧いてくるほど不便です。きっとNUDGEを今から2年以上知ってくださっている方は2年前にヘルニアで入院したことを思い出し、なんて事故怪我の多い代表だろうと、思ってることでしょう。常にお騒がせ野郎です... いつもご心配おかけしております。 何をやるにしても何倍も時間がかかり、家族にも迷惑をかけて、情けないし、いらいらもします。生後3か月をもうすぐ迎える次男のお世話どころか自分の世話もできない。家事・育児ほぼ夫が担ってくれ、いろんな動作をほぼ諦めて安静に徹してますが、それでも最低限手を使う場面において、ベストオブ不自由は、「歯磨き粉のチューブを絞れない。やっと絞れても右手で歯磨きしづらい」です。笑(もちろん「包丁にぎれない」「抱っこできない」「おむつ替えれない」などもありますが、それらは現時点では対応不可として諦めました。)自分で髪も洗えず夫が洗髪したり、髪をくくってくれています。夏休み学童に行く娘のお弁当も、私ができるところ以外は、夫と娘が作ってくれています。怪我した日には上の子二人(8歳・6歳)で協力してお味噌汁をつくってくれました。沁みた。   底なしに気が滅入ることもできますが、せっかくなので有意義な時間にしようと、昨日から2週間、とある実験を決意。その名も!「Mood by me poroject」ムードバイミー!いくらでも不機嫌になれる要素に溢れる今こそ、ご機嫌力を高めてみようというチャレンジ。一人だと怠けてしまうので、夫に審判をしてもらうことに。笑1日の終わりに10点満点で何点か、採点してもらいます。今までを振り返り、10点と1点をすり合わせしたので、私もイメージが湧いております。あとはやるのみ。苦行と思える怪我の期間に、手の回復と共に、自分に何かお土産があったら最高やん、という気持ちで、ずっと苦手意識のある「自分のマイナスな感情とのポジティブな付き合い方」の練習期間に充てようと思うと、なんだか楽しみですらあるのです。   楽しくユーモア交えて取り組めるように、プロジェクト化して、テンションのあがるエモめのプロジェクト名をつける。落ち込んだり気が滅入るときに、少しでも前向きに楽しく乗り切るために、まずは期間限定でテーマを決めて。今の自分だからこそ取り組める、且つ家族にも還元できるテーマ、家族4人に見守られながら2週間トライします。回復見込みのある期間限定の状況だったり、自分のケアを誰かがサポートしてくれるありがたい境遇においては、こんなふうな仕掛けを自分で用意するのは、なかなか名案な気がする。   ちなみに、夫に最終合計点何点やったら上出来やと思う?と聞いたらその答えは、70点(140点満点中)ハードル低っ!というか私いつもそこまで不機嫌か?と若干のもやりと共に幕開けしました。120点目指す!「頭を冷やして頑張ろう」の気持ちを込めて、まるで氷のようなゴシェナイトをお守りに身につけて。

生後二か月、自宅出産を振り返る

第三子を産んでちょうど今日で二ヶ月!いわゆる身体を休めることに徹するべき産褥期も終わり、ちょっとした節目なので妊娠~自宅出産までを振り返ってみる。以前、「第三子を自宅で産もうと決めました」という記事の答え合わせとして是非読んでいただきたい。 それにしても、これまでに二度乳児の育児を経験したからこそ、わかっていたはずなのに、やっぱり新生児期はあっという間にすぎた。3000g弱、触ると壊れそうなほど儚さを纏った繊細な身体も、もう6000g目前、ふくふくしいにも程がある…!たった二か月で産まれたときの二倍になっているなんて。人生でこんな短期間でこんなに成長することなんてもう二度とないと思うと、人の命の神秘に立ちあっている日々。私も同じ速さで元の身体にもどったらよいのに、失われた筋力は一向に戻らず、蓄えた脂肪は鎮座している。なんでや。 五人家族になりました 三度目の乳児期にして、ようやく見えてきた景色 過去二度の乳児期の育児は、それはそれはてんてこまい。一人目はすべてが初めての体験なので、毎度真面目に悩み、四苦八苦し、二人目は絶賛イヤイヤ期の上の子との二歳差育児でほぼ記憶喪失。(当時夫は週5で出社する会社員で、朝7時半には家を出て、帰るのは0時前後。加えて週末にMBAの学生をしていたので、私は週7でワンオペ育児をしていた。そしてそんな中でも、私自身、創業準備をしていた。) 育児を楽しめる自分でいたいという願望を捨て去ったことはないけれど、実現できたとは口が裂けても言えない…。自分の中のもやもや・いらつき・やるせなさの矛先が常に、夫と自分に向いていて(子供には向かなかった。というより、意思をもって向けなかった。)、ご機嫌とは程遠かった。不機嫌の被害者はもちろん夫をはじめとした周りの人たちなのだけど、もれなく自分も被害者の一人で、いつも不機嫌から立ち直ったあとに、猛烈に後悔してその度に自己信頼がなくなった。もう一度、育児をやり直したいと思ったことは数知れず。けれど、その時の自分のベストを尽くしていたのだから、きっとやり直したとて結果は一緒だろうとも思う。それに、その時の感情も反応も、すべて学びとして自分に必要な体験だったよな、と折り合いをつけて、過去はやり直せないから、せめて今、ご機嫌に過ごそうと努力をしてきた。 だからこそ、第三子の妊娠がわかったとき、「ご機嫌な自分で赤ちゃんと向き合いたい」という、心のどこかに残っていたやり残しに、もう一度向き合うチャンスをもらえたように感じた。私にとって再挑戦の始まりだった。一人目とは8歳差・二人目とは6歳差という年の差を味方に、手のかかる時期を過ぎた上二人の子供にも育児を手伝ってもらえる。そもそも一人目出産以降のこの8年で、私自身も自分との付き合い方が少しずつ分かってきて、心身共に随分整った自負がある。今なら、ただ純粋に赤ちゃんと過ごす時間・赤ちゃんの成長をリアルタイムで楽しめるのでは。そんな期待が膨らんだ。 そして、実際この2か月、自分でもびっくりするくらい、第三子を常時かわいいと思いながら、もう過ぎ去ると帰ってこない目の前の時間を楽しめている自分がいる。産まれて1か月半ほどは夜にまとまって寝れず、それだけは辛かったけれど、それを除くと泣いてても、吐いても、漏らしても、何してもかわいい。 ご機嫌は身体が元気だからこそ こうやって(ある程度)ご機嫌にすごせているのは、身体が元気であることが大きい。心と身体はつながっているとよくいうけれど、疲れきった身体でご機嫌でいるのは間違いなく難しい。 初めての出産のときから、歳は八歳も重ねているけれど、上ふたりのときとは比べ物にならないくらい元気に過ごせたのは、 ① 出産時の身体のダメージが少なく、回復が早かった② 助産師さんのサポートもあり母乳をスムーズに軌道に乗せれた③ 産後一か月、私の養生最優先で夫が家事育児を担ってくれた これらの理由から。いずれも、自宅出産だったからこそ実現したことばかり。三度目にして自分にしっくりくる出産ができたことは、改めてとても良い経験だった。 安産は一日にしてならず 特に①②は、病院で二度産んだ私が知らなかったことを、ひとつずつ丁寧に指導し、人間の持つ本来の力を最大限引き出してくれた助産師さんのおかげ。二度の病院での出産より、自分の身体の神秘を味わうことができた!もう一度出産したいくらい。 自宅出産を決めて、初めて助産師に会ったとき、受け取ったプリントのひとつに「安産は一日にしてならず」と書かれた予定日までの健診の時期や内容が細かく記されたスケジュールがあった。それを見ながら、「安産になるかどうかは、妊娠中の暮らしぶりの答え合わせのようなもの」と説明を受けた。もちろん、体型や骨格、骨盤の大きさ、持病の有無など、生まれ持った要素が大きく影響する部分もある。そこはどうしようもない。けれど、運動や食事、生活リズムといった日々の積み重ねは、自分の意思で整えることができる。この話を聞いたとき、病院で出産したときの「先生に取り上げてもらう」という受け身の感覚から、「自分で産む」という主体的な意識へと、自然と切り替わっていった。 「安産は一日にしてならず」 自宅出産でも、病院で産む場合と同じ頻度で検診があり、毎月会う度に、助産師さんは細やかにそのときの状態を見たうえで、過ごし方のアドバイスをくれた。(後期以降は自宅に来てもらっていたが、それまでは助産院へ通った。)前置胎盤の状態が続いたときや、途中で子宮頸がんの検査で異形細胞が出ているが故に追加検査をしたときなどは、日々ラインでやりとりしながらフォローしてもらえた。わからないことがあるときにすぐに聞ける相手がいることはとても心強かった。季節や体調に合わせて、食材や飲み物についても指導してくれたり、なんやったら検診の度に何か持たせてくれたり。実母よりひと周り以上お若い助産師さんだけど、完全に私のオカン。行く回数を重ねる度に、助産院にいくのは実家に帰るような気持ちに。病院の先生をオトンやオカンと思うことは決してなかったので、こういった関係を助産師さんと育みながら妊娠期を過ごしたからこそ、ものすごいリラックスした状態でお産当日も過ごせたなと思う。 自然なお産VS医療介入? 自宅出産をしたというと、びっくりされることが多い。実際今の日本では、助産院での出産は1%、さらに自宅出産は0.2%だそう。病院以外で産む選択肢があることをそもそも知らない人も多い。 「自宅出産」と聞くと、自然のまま、医療に頼らない、というイメージを抱く方も多いかもしれない。けれど実際は「医療を否定するお産」では決してなく、むしろ、自宅出産こそ「医療の力を正しく使う」という視点が欠かせない。どんなお産であれ、命を預かる場にはプロの知識と経験が必要。自宅出産の場合、出産に向けての妊婦健診はもちろん、助産師さんによる綿密なリスク管理が行われる。漠然と病院の方が安心かも?とこの意思決定をした私ですら最初は思っていたが、助産師さんは今後の職業人生がかかっているので(ミスが起これば廃業になりかねない)、それこそ命を懸けて向き合ってくれる。 助産院には、エコー検査の医療機器などはないため、嘱託医がいる提携先の病院で、出産までに最低4回は検査を受け、その結果を元に、助産師さんと病院の先生で、本当に自宅出産が可能か判断する。(開業助産師がお産を扱う上で嘱託医との連携は必須)私は、病院での検査にことごとくひっかかり本来最低4回のところ、振り返ると7回も病院に行っていた。なんなら病院で産む方より高頻度で検診を受けていたことになる。少しでもリスクがあると判断された場合、無理に自宅で産むことは許されない。リスクに目をつぶってお産の最中に緊急搬送にでもなったら大変なので、お産の前にその判断は下されることが多いそう。妊娠経過はもちろん、出産中に起こりうるあらゆる状況を、これでもか!というほど細かくシミュレーションしたチャートを見せてもらったときには、その情報量の多さに圧倒された。状況に応じてどのような判断を下すのかが丁寧に整理されており、まさかここまで科学的かつ論理的に出産が組み立てられているとは思っていなかった。 だからこそ、「自宅で産める条件」を整えるために、あらゆるケースを想定して準備をする。その準備、もちろん妊婦が引き受けないといけない。細やかなアドバイスをする助産師さん、そしてそれに耳を傾け日々の暮らしを整える妊婦、二人三脚でお産まで歩むことになる。「自然に産む」とは、「なんとなく自然に任せる」ということではなく、本来備わった力を信じ、そこに必要な知恵や手助けを、意志をもって選ぶことだと感じた。 家族全員に見守られたくて自宅出産を決意したはずなのに 何度も、自宅出産は難しいかもしれないという検診の結果に直面した。けれど、自分にできることは本当にシンプルだった。食事、運動、生活リズムを整えること。そこに静かに向き合い続けた。ありがたいことに、無事に正期産を迎え、(正期産前の出産は自宅ではできないのに、正期産に入る二日前に嘔吐と前駆陣痛により、もう産まれるのか!?とひやひやした。最後の最後まで助産師さんに気を揉ませる妊婦だった。)自宅出産ができる!という条件が整い、あとは陣痛が来るのを待つのみ。そして、とうとうその日を迎えたのだけど、自分の想定からは大きく外れる出産となった。 予定日までまだ2週間弱あるし、一人目は新月、二人目は満月の夜に産まれていたから月の満ち欠けを考えるとまだ産まれるのは1週間先だろうとたかを括っていたタイミングだった。その日、朝おしるしがあり、いよいよいつ産まれてもおかしくない!しばらく外出もできないし!と、食い意地を最大限発揮していた私は、昼に絶品のピザをほおばっていた。ランチ後、帰宅してなんかいつもより前駆陣痛が長いなぁと思い、16時過ぎ、まだ本陣痛に進んでいくかわからないが、3-5分間隔で子宮収縮を感じたタイミングで助産師さんが来てくれることに。(片道40分くらい)この時まだ私は、満月は来週やしなぁ、呼びつけといて陣痛逃げそうで忍びない、とのんびりしていた。助産師さんが来てくれると連絡をくれ、身体がよしいくでぇ〜〜!とスイッチを入れたのだろうか。急に、これはやっぱり痛いのでは?と思い始めた。一番痛くて辛いときに夫がいないと困ると思い、まだその時は本陣痛の確信もなく、痛みに余裕もあったので、「今のうちに息子の保育園お迎え行ってきて!」(遠い所に通わせてて往復50分)と夫を送り出す。17時過ぎには、学童から帰る娘、夫と息子、そして助産師さんが揃うので、皆で赤ちゃんを迎えれる!よかった!と、その時は呑気に構えていた。すると、16時半過ぎから急に痛みが増し増しに。家で一人きり。痛いのに誰もテニスボールで押してくれへん。少しでも痛みが和らぐようにと思い、湯舟にお湯をはって半身浴をしてみたが、湯舟に座ってるより横になっている方が楽な気がして、結局15分足らずで上がる。半身浴後、産まれてしまう可能性を悟った私は、防水シーツを布団にしいた。そのときの私はものすごく冷静で、陣痛の波の合間は痛みがないことを自覚しながら、その静かな時間を楽しんですらいた。そうこうしてるうちに、陣痛の波の間隔もどんどん狭まり、痛みもマックスに。気づいたら「いきみたい!」(正確には、猛烈な便意で、きばりたい!という感じだった。生々しい話でごめんなさい。)という感覚が込み上げる大波がやってきて、私は確信した。うわ、産まれる。一人で産むことになる。そして、3回目の大波のタイミングの直前、体勢を四つん這いに変えた途端、破水して羊水と血がバシャーンと弾けでて、同時に赤ちゃんの頭がドゥルンと出てきた。特にいきんでもないのに自然と出てきたのが不思議だった。(おかげで、会陰も切れずに済んだ。後に、会陰切開をしないで済んだことがはやめの回復にめちゃくちゃ貢献していることに気づき、割けずに伸びてくれた会陰に感謝した。)そのタイミングで、息子帰還。ドアを開け私のいる所に走り寄ってきたところ、異変に気づき、玄関に向かって「頭出てるー!」と叫ぶ。同じタイミングで合流した助産師さんと夫が玄関からダッシュで駆け寄ってくれ、間一髪布団に叩き落とす前に助産師さんに取り上げてもらうことができた。(長男はその後、第一発見者として自分のことを誇りに思っている。なんて愛くるしいんや。)「家族四人に見守られて、全員で迎える」ため、も自宅出産を望んだ理由の一つだったのに、まさかのほぼ一人出産。なんともお騒がせなお産となった。 四人家族からスムーズに五人家族になれた...

ファミリーリングはどの指に?家族の想いをそっとのせる指の選び方

家族の存在や愛情を身近に感じられるジュエリーとして注目されている「ファミリーリング」。出産や記念日、家族との節目のタイミングで購入される方も増えており、プレゼントやセルフギフトとしても人気が高まっています。 でも、いざ着けるとなると「どの指が正解?」「指ごとに意味があるの?」と迷ってしまう方も多いのではないでしょうか?指ごとに込められた意味や、自分らしい選び方を知ることで、より深い愛着を持って身につけることができます。 この記事では、ファミリーリングをつける指ごとの意味や、自分に合った選び方のヒントをご紹介します。 ファミリーリングとは?簡単なおさらい ファミリーリングとは、家族のつながりや絆をかたちにした特別な指輪のこと。「子どもの誕生石をあしらう」「家族のイニシャルや記念日を刻印する」といったパーソナライズされたデザインが多く、見た目の美しさだけでなく、込められた想いが大きな魅力です。 また、マリッジリングやペアリングのように“夫婦”だけの絆を表すのではなく、家族全体のつながりを象徴するのがファミリーリングの特徴。そのため、夫婦でペアにするだけでなく、子どもとおそろいにしたり、世代を超えて身につけたりと、さまざまな形で受け継がれるジュエリーとしても愛されています。NUDGEでは、「家族の絆」にとどまらず、大切な友人への感謝や、自分自身へのエールを込めて、誕生石やメッセージストーン(意味を込める石)を選ばれる方も多くいらっしゃいます。関連記事:ファミリーリングのデザイン集|家族の誕生石で叶えるオーダーメイドジュエリー ファミリーリング、どの指につける?|指ごとの意味と特徴 親指(サムリング)|目標達成・意志の象徴 親指は、自分の信念や強い意志を表現する位置とされています。家族で叶えたい夢や、これからの目標に向かう気持ちを込めるのにぴったり。 親指にリングを着けるスタイルはやや珍しく、着けているだけで目を引く存在に。自分らしいスタイルを大切にしたい方や、周りとはひと味違う個性を楽しみたい方におすすめです。 人差し指(インデックスリング)|導き・行動力 人差し指は、「前進」「良縁への導き」を象徴する指。家族を支えるリーダーとしての責任感や、周囲を明るく導きたいという願いを込めて選ばれることが多い指です。 特に子育てに忙しいママやパパに支持されており、毎日の生活での活力や前向きなエネルギーを高めたい方にぴったり。 中指(ミドルフィンガーリング)|直感・バランス 中指は、直感力や人間関係のバランスを司るといわれています。家族とのつながりを大切にしながら、自分らしさや感性も守っていきたい——そんな想いで選ばれることが多いです。 手の中心にある中指は、視線を集めやすく存在感も抜群。リングのデザインを楽しみたい方や、ファッションとしてもジュエリーを取り入れたい方にとっても魅力的なポジションです。 薬指(リングフィンガー)|愛情・信頼 薬指に着けるファミリーリングは、結婚指輪と同じく「永遠の愛」や「強い絆」を象徴するとされています。家族への深い愛情や信頼を形にしたい方に、選ばれています。 左手の薬指は結婚指輪が一般的なため、ファミリーリングは右手の薬指につける方が多いのが特徴です。 小指(ピンキーリング)|願い・チャンス 小指は、「願い」や「チャンス」を表す場所とされています。家族の幸せや未来への願いを込めて身につける方が多い指です。 ピンキーリングは華奢で繊細なデザインが多く、普段使いにもなじみやすいのも魅力。お守りのようにそっと身につけて、日々の幸運や家族の幸福を願うのにぴったりの指です。 指輪でない選択肢も|ファミリージュエリー お仕事や育児など、日常のなかで指輪を身につけにくい方には、ネックレスとしてファミリージュエリーを取り入れるという選択肢もあります。 特に育児中は、手元のアクセサリーを控えたくなる場面もあるため、ライフスタイルに寄り添った形で想いを身につけられるのは、大きな魅力です。 指輪にこだわらず、自分にとって心地よいスタイルで、家族との絆を感じられるジュエリーを選んでみてください。 自分と家族の想いを込めた指選びを ファミリーリングに「正解の指」はありません。大切なのは、その指に込めるあなたの想い。家族との絆を感じられる、あなたらしい着け方を見つけてもらえると嬉しいです。ファミリーリングの関連記事:ファミリーリングのデザイン集|家族の誕生石で叶えるオーダーメイドジュエリーファミリーリングができるまで|オーダーメイド制作の石選び

指輪をはめる位置で変わる意味とは?左右の手と指ごとの特徴まとめ

指輪は、ただの装飾品ではありません。どの指に、どちらの手に、どんな想いでつけるのか――それによって、指輪が持つ意味やメッセージが変わってくることをご存じでしょうか? たとえば、古代ギリシャでは、左手薬指には心臓へつながる血管があると信じられており、「命に一番近い指」として愛の象徴とされてきました。この指に指輪をつけることで、永遠の愛を誓うという風習が広まり、現在の結婚指輪の習慣につながったとされています。 このように、10本の指それぞれに意味があり、どの指にリングをつけるかによって、受け取るエネルギーや込められる想いが変わるとも言われています。 今回は、そんな10本の指の意味をご紹介します。「どの指につけようかな?」と迷ったときの参考にしてもらえると嬉しいです。 【左右の手】右手と左手で変わる役割と意味 リングは、どの「指」につけるかだけでなく、「左右どちらの手」につけるかによっても意味合いが変わります。 風水では、気の流れが左手の指先から入り、右手の指先から出ていくとされています。この考え方をもとに、それぞれの手には次のような役割があるとされます。 右手:行動や表現の手 右手は、内側にある意志や力を外に向けて発信する手。「行動力」や「実行力」、「自己表現」など、現実的なアクションと深く関わります。そのため、目標に向かって動きたいとき、自信を持って自分を表現したいときなどに、右手にリングをつけるのがおすすめです。 左手:想いや気持ちを受け止める手 左手は、外からのエネルギーや思いを受け取る手とされ、「気持ち」や「意志」、「心のつながり」と関係しています。自身の内面に目を向けたいとき、気持ちを整えたいとき、大切な人との絆を感じたいときには、左手にリングをつけることでそっとサポートしてくれるかもしれません。 【指ごと】指輪が持つ意味 親指(サムリング) 「土台の指」とも呼ばれる親指は、意思や信念の強さを象徴します。挑戦したいことがあるとき、仕事で力を発揮したいときにおすすめです。 右手の親指:リーダーシップを発揮したいときに。自信や決断力をサポートしてくれます。 左手の親指:目標に向かって信念を貫きたいときに。迷いなく進む力を与えてくれます。 人差し指(インデックスリング) 「導きの指」といわれ、行動のきっかけや方向性を示す役割があります。前向きな気持ちで一歩踏み出したいときにぴったりです。 右手の人差し指:集中力や判断力を高め、チームをまとめる力を引き出します。 左手の人差し指:積極性をサポートし、良いご縁やチャンスへと導いてくれます。 中指(ミドルフィンガーリング) 「ひらめきの指」とされる中指は、直感力や個性の発揮に関わります。自分らしさを大切にしたいとき、周囲と調和しながらも自分の軸を持ちたいときに。 右手の中指:すばやい判断や行動を後押し。邪気を払い、流れを整えてくれるとも言われます。 左手の中指:周囲との関係性を整え、空気を読む力や協調性を高めてくれます。 薬指(アニバーサリーリング) 「対話の指」とも呼ばれ、感性や心のつながりを表す指です。穏やかな気持ちで人と向き合いたいときに。 右手の薬指:感性や創造力を育み、内面の安定をもたらしてくれます。 左手の薬指:愛や絆を深める神聖な指。結婚指輪をつける場所としてもよく知られています。 小指(ピンキーリング) 「引き寄せの指」といわれ、チャンスやご縁、新しい変化を呼び込みたいときにおすすめです。...

結婚指輪をなくしたときに考えたいこと|心の整え方

結婚指輪をなくしてしまったとき、その喪失感は想像以上に深いものです。日々の暮らしのなかで当たり前のように寄り添ってくれていたその小さな輪が、ふとした瞬間に消えてしまう──そんな出来事は、心にぽっかりと穴を開けてしまいます。 今回、お客さまから「結婚指輪をなくしてしまった」というお話を伺い、新たにペアの指輪をお仕立てさせていただきました。かつて片割れとなってしまったその指輪が、もう一度寄り添えるように。私たちにとっても、とても大切なご依頼となりました。 指輪をなくしたときの心の整え方|私の経験から ジュエリーや石をなくしたとき、あるいは割れてしまったとき、心に押し寄せるのは深い落胆や悲しみです。私自身、ジュエリーを愛し、大切に扱っているつもりでも、何度もなくしたり、石を欠いてしまったりした経験があります。 そんなときに、自分に言い聞かせている言葉があります。「石が身代わりになってくれたのだ」ということ。 もしかしたらその瞬間、目に見えない何かから守ってくれたのかもしれない。そう思うと、不思議と心が少しやわらぎ、救われるような気がするのです。 なぜか壊れる・なくなるジュエリー|それでも味方だと感じる理由 天然石やジュエリーは、ただの装飾品ではなく、私たちの味方でいてくれる存在だと私は思っています。長く石と向き合う日々のなかで、そう感じるようになりました。 だからこそ、石が割れたり、ジュエリーが失われたりするのは、私たちのために選ばれた「必要な出来事」なのかもしれません。大切なものを失うのはとてもつらいことだけれど、そこに何か意味や役割があったのだと信じたいのです。 失くしたことは「何かのサイン」?人生の選択と安心 人生は、日々の小さな選択の積み重ねです。もしあのとき違う道を選んでいたら、もしジュエリーを失くさずにすんでいたら──そんな「もし」を想像しても、その先の未来は誰にもわかりません。 だからこそ、今ここにある現実、そしてそれを通して得られた気づきや出会いを大切にしたいと思っています。 ジュエリーを失ったことも、きっと未来の安心や幸せへとつながる過程だったのかもしれません。そう思えることで、心が少しずつ軽くなるのです。 【まとめ】大切なものをなくしたあなたへ 指輪やジュエリーをなくすのは、誰にとっても悲しく、つらい経験です。 今回の出来事を通して私が感じたことを綴らせていただきましたが、それがすべての方に当てはまるとは思っていません。悲しみの受け止め方や、心の整え方は人それぞれ。無理に前を向かなくても、無理に納得しようとしなくてもいいのだと思います。 ただ、もしどこかで少しだけ心がふわっとほどける瞬間があったなら、この言葉たちがその一助になれたなら、それだけで本当にうれしく思います。

贈与とは。少しずつ受け取り上手になってきた話。

ここ最近なんだかたくさん受け取ってる。ものも、愛も。・インド渡航した友人から、タラブックスの絵本・たくさんの出産祝いや、おさがりとして自分の子供が使わなくなったもの・NUDGEメンバーや友人が言葉にしてくれた私の強み・友人と近況報告をしあう時間・オーダージュエリーへの愛あるレビュー 分かりやすいものだけでもこんなにある。挙げたらキリがない!幸せ者やなぁと噛み締める。 受け取り上手になってきたここ二年弱 ここ二年弱で、「受け取る」ことが随分と上手になった。素直にありがとうと思えるようになった。giverやtakerなんて言葉があるけど、人から受け取る=giveされるたびに嬉しいけれど、pay backしないと、と焦る自分がいた。(家族やめちゃくちゃ心理的距離の近い友人には甘えて全然返せてないことも多々あり、自己中やなぁと思う。身近な皆さん、ごめんね。) メンタルモデルでいう「価値なし」のタイプの私は、受け取りすぎることは、自己価値の貯金を減らすことのように感じていた。 ▼メンタルモデルとは個人が経験する痛みから形成される行動パターンや信念体系。四つのタイプに分けられる。その中の「価値なし」モデルは、何か価値を出さないと自分の価値を認めてもらえないと思っている。 【参考】ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー できるだけ、「はやく」「受け取った以上に」pay backして精算したい、みたいな気持ちがあったんだと思う。でもとある時、友人とそんな話をしてたら、「生きていくための空気も水も、当たり前のように地球から無償でgiveされてる」との言葉をもらった。 地球に対しては負荷をかけすぎないように、住まわせてもらいます、という畏怖の念はあるけれどそれは「与えられたもののお返しとして」感じてる気持ちではなかったので、その言葉を聞いた時に、自己価値を守るために、躍起になって恐怖や義務感で精算するのでなく、自分から溢れた愛のエネルギーで、できるときにできることをgiveあるいは、pay backしようと思うきっかけになった。 「贈与」とは一体どんなシステムなのか 最近「評価と贈与の経済学」という本を読んだ。一部抜粋するので是非読んでほしい。 贈与すること自体が報酬だから、そのお返しを早く・明確に示すことは、贈与してくれたひとが自分に向けてくれた愛をなんだか信じていないことのように思えた。自分に回ってくる贈与も、自分から誰かへの贈与も、ある種の循環でしかないのだから、その流れの速度については自然なことがとても大事。 努力と報酬は原理的に相関しない。するときもあるかもしれないけど、それは例外。能力と報酬も一致しない。報酬は運である。 運だからこそ、成功したら他人に回さないといけない。運であるものを自分ひとりが取ったらネコババです。で、ネコババはバチが当たりますってのが昔からの教え。自分の成功は自分ひとりで成し遂げたものじゃない、自分がいま手元に持っているものは、自分の専有物じゃなくて、一時的に「託されたもの」だと考えるべきなんです。自分がそこそこ努力して、ある程度の社会的成功を収めて、そこそこ自由に使える資源が手に入ったっていうのは、もともとが自分の力ではない。子どものときには親の世話になったし、友達とか、上司とか、同僚とか、師匠とか、いろんな人の支えがあったからこそ今日の自分があるわけで。だったら、恩には恩を以てお返しをしなければことの筋目が通らない。 もちろん「努力したら、最終的には報酬がある」ということは言ってもいいと思う。でも、どんな報酬がいつもらえるのかは事前には予測できない。ある種の努力をしているうちに、思いもかけないところから、 思いもかけないかたちで「ごほうび」が来る。それはまさに「思いもかけないもの」であって、努力の量に相関するわけじゃない。 「努力した分についてすぐ報酬よこせ」って言っている人は結局「努力した人はどこかで最後に報われる」っていうことをほんとうは信じていない。信じていたら、努力してなかなか報酬がやって来なくても、「そのうち、いいことあるよ」って思っていられるはず。ちょっとやって、「早く、早く」という人は努力の効力も信じてないし、実はろくに努力もしてない。我慢はしたかもしれないけど、努力はしてない。「しなきゃいけない」と言われたことはしたかもしれないけれど、「これがしたい」と思ったことを必死でしたわけじゃない。 なにかを仕上げたときに、それが結果的にどういうアウトカムをもたらすかは相当長いタイムスパンをとらないとわからない。人間の営みとその成果の相関関係なんて、極端な話「棺を蓋いて事定まる」ものなんだから。 これだけ努力したんだから、遅滞なく報酬をよこすように、納品したらすぐ金払え、「キャッシュ・オン・ デリバリー」っていうのは、要するに相手を信じていない人間の言いぐさ。自分の差し出したものと対価の同時交換を求めることは取引をする人間としては実はかなり恥ずかしいこと。いま代金を回収しておかないと、たぶん払ってもらえないと思うから急かすわけなんだから。もし自分の差し出したものが向こうの要求を超えるクオリティのものだったら、「おお、 これはすばらしい、ぜひ次回もお願いしたいものだ」ってなるじゃない。「次はない」と 思っている人間だけが、同時交換・等価交換をうるさく求める。ほんとうに自分の作品の質に自信がある人は「すぐ金払え」とか言わない。 だいたい、努力できる人って「いまオレはすごく努力している」という自尊感情を持った段階で、もうすでにかなりいい気分になっている。実はいろんなかたちで、ぼくたちは報酬をけっこう前払いで受け取ってるんだと思う。 贈与の循環に参加するために、まずは自分が満たされる たまたま別の友人たちからそれぞれ最近贈ってもらった絵本と、小鳥の鍋つかみはどちらもインドのもので、「青い鳥」がモチーフだった。こんな偶然ある? 青い鳥は「小さな幸せ」を象徴する。童話『青い鳥』は兄妹が「幸せの青い鳥」を探して旅に出る物語で、さまざまな場所を訪れ、その先々で青い鳥を見つけるけれど、結局、手に入れることができず。最後、夢から覚めた2人は、自分たちが飼っていた鳥が美しい青色に変わっていることに気づく。本当の幸福は、実は身近なところにある、というメッセージ。 Giveするにも、Giveされるにも、ヘルシーに贈与の循環に参加するには、「自分が満たされている」という状態がとても大事。私にとって「満たされている」状態は、「身近な小さな幸せ」に日々気づき、感謝できているとき。この青い鳥たちはお守りとして、日々の私に、「小さな幸せ見落としてないか?」と優しく投げかけてくれそう。なんだか、大切な友人たちにも、見守られている、と愛を感じた。

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