Up to meシリーズ(着せ替えアイテム)開発の誕生秘話
NUDGEで人気のUp to meシリーズ。その日の気分で石やパーツを取り替えたり、組み替えたりできる着せ替えアイテムです。この記事では、三神が3年ほど前にインスタにつづった誕生背景について、彼女の言葉そのままを紹介したいと思います。
NUDGEで人気のUp to meシリーズ。その日の気分で石やパーツを取り替えたり、組み替えたりできる着せ替えアイテムです。この記事では、三神が3年ほど前にインスタにつづった誕生背景について、彼女の言葉そのままを紹介したいと思います。
※この記事は2022/3/9にnoteに公開した記事の転載です。 3月9日はNUDGEを世に送り出した日なので、今日は2周年の節目。本当にびっくりするくらいあっという間に、2年もの歳月が流れました。とはいえ、コロナの影響や、家族の事情でそのうち半分ほどオーダー休止をしておりブランド運営に関しては歯切れの悪い時間でもあったのも事実。見た目にはあまりに長く「オーダー休止」と立ち止まっているNUDGEでしたが、自分にとっては、物理的な環境も、精神的な心の中も、様々な変化があった大切な時間だったので、今日それらのことを少し言葉にしてみます。終始主語が自分で、あまりにも自分の内側を晒しておりますが、公開した独り言の備忘録と理解しながら、是非お付き合い頂けますと幸いです。 目次 与えられた休止期間 渡仏の収穫 NUDGEの現状と自分の内側はリンクしてる 人格が増えていく3年目 与えられた休止期間 2021年の春先。これほどのキャパオーバーを感じたことはないほど、NUDGEの仕事は量も精神的負荷も、自分の器を存分にあふれ返って、身の回りは大洪水。「あぁ.. あふれ出している.. 」のタイミングはとっくに通り越してもう洪水の中で溺れかけていました。良くも悪くも、「やりたいと思ったらまずやってみる」の行動力と衝動性に、自分は何度も助けられてきたし、自分の個性そのものだと思います。とはいえ振り返ると、今までやってきた「やりたいと思ったこと」は世界一周やインド就職など大それたことであれ、“今日どうしてもあの店のカレーが食べたい”や急に入ってしまう片付けスイッチなどの些細なことであれ、基本的に自己完結でした。(もちろん家族を多々振り回しているのは承知している。)けれどNUDGEは違う。お客様がいるし、作り手がいる。特にNUDGEの初期とは違い、運営しだして1年ちょっと経った去年の春には、有難いことに、自分の直接の知り合いや、知り合いの知り合いではない、全く名前も顔も知らない方までオーダーくださっていました。そのため、オーダーが増えて自分の手と気が回りきっていない状況に、追い打ちをかけるようにインドでコロナの状況が深刻化したことによって、多大な生産遅延が起きていました。NUDGEは在庫を持たず、受注生産でオーダージュエリー(ブランドとしては、カスタムジュエリーと謳っていたけど、結局私のやっていることはカスタムの枠を超えたオーダージュエリーだったため、非常に生産フローに時間と労力がかかるという別の反省も見えました。)を作っているブランドのため、いろんな状況が重なり生産が遅れることに対しての負担は、「長く待つ」形で結局お客様に負わせることになりました。しかも、“大体いつできる”という約束を何度も破られる形で。せっかく楽しみにしてもらっている気持ちを台無しにしていることを自覚しながら、常に申し訳なさに苛まれていました。 その時期のインド現地ではデルタ株が言葉の通り猛威を振るい、現地の工場のメンバーの周りでもとにかく人が亡くなったり、重症化したりと、ただならない状況で、大混乱の最中でした。家族が病気になるとあたり前のように仕事を休んだり、冠婚葬祭の際にはまとめて1週間お休みしたり、インド人にとって、家族の存在がどれほど大きいか、現地で会社員をしていた頃に何度も目の当たりにしていたので、彼らの置かれている状況を考えると、ジュエリーを納期通りに作るのは不可能なことも理解できたし、それ以前に彼らのメンタルが心配でなりませんでした。結果、このタイミングで、自分が今の状況を継続するのは、買い手(お客様)・作り手(インドの工場)・売り手(私)の誰にとっても懸命でないと判断し、一切の新規オーダーを休止し、代わりにインドの緊急支援に充てるためのドネーションジュエリーを販売しました。ドネーションジュエリーの企画は二度行いましたがいずれも即完売で、あの時にたくさんの方が手を差し延べてくださったことは、心身ともに縮こまっていた私には大きなギフトでした。インドを支援するためのドネーションでしたが、結果的には私が支援された気持ちです。また時期を同じくして、夫が、2020年の4月から通いだした大学院で交換留学の機会を得ることになり、会社を辞めて渡仏(パリではなく南仏トゥールーズという街です。)することを決断しました。たった5か月弱の期間にはなるけれど、新しい環境や文化を生身で体験できる機会には胸が膨らみ、迷わず家族での渡仏を選択しました。 コロナと渡仏。休止するには十分な理由でした。とてつもなくほっとした自分がそこにいました。申し訳なさや睡眠不足から解放される。それが率直な本音でした。誰かの背中をそっと押す、大好きな天然石のジュエリーと、その価値を受け取ってくれる大切なお客様。自分の大切なものを守るために、このまま突き進んでもいいことはなさそうだ、とこっそり、でも確信めいた思いを抱えながらも、決して自らブレーキを踏むことができずにいたので、止まるための理由をお膳立てしてもらったことは、情けないけれど、心底ありがたかったです。NUDGEの長い休止期間はそこから始まり、そして今に至ります。 渡仏の収穫 フランスでは、せっかくジュエリー文化の聖地なので色々学びたい!と当初は意気込んでいましたが、実際は生活することでいっぱいいっぱいでした。ただ、かえってその状況は、自分にとっての生き方を見つめる機会となりました。 ずっと、“生きる”というのは、“働く”と“暮らす”の足し算で、且つ、“働く”にものすごく比重が寄っていました。生きがいは、社会との接点の中で誰かの価値にならないと得れるものではないと信じていたし、それが全てでした。フランス滞在を経て今は、「生きる=働く+暮らす+遊ぶ」だと考えています。 生活することで精一杯だった理由には、もちろんフランス語が一切話せない中で子供をスクールに通わせたり、買い物をしたり、新しい土地での日常が、自分たちにとって不慣れな非日常だったこともありますが、それ以上に、フランス人の働き方にもありました。とにかく、休みが多かったのです。渡仏してまもない8月、バカンス真っただ中の街中は、ほとんどの店が閉まっておりとても静かでした。子供を保育園に行かせたいけれど役所も全て、人が不在。9月に入って活気が出てきた通りを見て、これが通常運転の街並みなのかとその様変わりした様子に驚き、いかにバカンス時は社会全体が動かなくなるのかを実感しました。9月に入り、スクールが始まってからも、毎週水曜は午前まで(頼めば預かり保育のようにお願い可能だけど、ほとんどの子どもたちは午前で帰宅)、8月の1か月の長期休み以外に、約2か月に一度ほど2週間のお休み。その合間で、頻繁なストライキによる閉園あるいは給食なし。また、フランスでは、労働者は連続して週6日以上労働してはならず、日曜日を休息日とすることが、労働法典に明記されているため、日曜はほとんどのお店が閉まります。(交通機関や病院、飲食業、報道機関、そして法定指定観光地域などは、例外措置として日曜日の営業が許可されているとのこと。ただし通常時より賃上げするなど措置が必要。ちなみにドイツに遊びに行ったら、ドイツは午前も含め日曜は一日まるっとお休みでした。)パリに遊びに行ったとき、日曜日とはいえ中心地はお店がたくさん開いていたので、私たちの住んでいた南仏の田舎町とはまた違った風情でした。こういった休みの多い環境で、物理的に子供と過ごす時間が膨大でした。 そもそも、フランスの法定労働時間は週35時間。(法定労働時間は、それ以上働くと割り増し賃金が発生する標準時間を差し、「それ以上の労働を禁止する」上限時間は週48時間です。)また、バカンス法により、5週間の有給休暇を取得させる義務もあり、実際フランス人は日本人と比べて、仕事に費やす時間が短く、仕事は人生の一部でしかなく、仕事=人生ではないという仕事観がみてとれます。 知り合ったフランス人も、「バカンスのために生きている」と断言するほど、生きる喜びを仕事以外から感じており、良く引用される「働くために生きるのではなく、生きるために働くべきだ。(Il faut travailler pour vivre, non vivre pour travailler.)」が頭に浮かびます。フランス人にとっては、大切にすべきプライベートがない方が人間的魅力に欠ける、とみなされます。働くことのみに心を燃やした私にとってはものすごく新しい視点に思えました。働くことより家族最優先のインド人は身近でしたが、フランス人も、遊ぶことへの情熱が半端ではありませんでした。...
※この記事は2020/3/9にnoteに公開した記事の転載です。 はじめまして!三神優子です。(旧姓は玉井なので、玉井の方が馴染み深い方、お久しぶりです!)ずっと始めたいな、と思っていたnoteですが、ジュエリーブランドNUDGE(ナッジと読みます)のウェブサイトのローンチに合わせて、ようやく筆をとりました。思えば、いつかインドでジュエリーブランドをやる!と思ったのは27歳の頃。今や33歳。その間、インド就職、結婚、二度の出産を経験し、とてつもなく長くしたためていたこの想いをようやく形にできたので、ブランドを作った裏側を伝えたく、今日に至る経緯を書きます。 ところで早速脱線になりますが、今日3月9日をローンチの日に選んだのにはこだわりがあって、大学時代の部活(タッチフットというアメフトとルールがほぼ同じスポーツをしていました。)の背番号が39だったことに由来します。単純に読みの通り、「サンキュー」という感謝の気持ちの受け渡しをチームメンバーとできれば、という想いをこめて当時背負っていた背番号。「感謝」は学生時代から今も変わらず、一番大切にしてる感情であり、自分の原点ともいえます。人間の幸福感にもつながる大事な感情だからこそ、日々感じながら、そして周りの人に伝えながら、過ごしていきたい、という想いをこめて、この日をNUDGEのローンチの日に選びました。(本当は、第二子出産前の7月中に、などと思っていたけど産前産後、まったく余裕がなく3月になったという言い訳もあります。笑) ということで、ブランドの生い立ちについて、そしてそれを語る上で外せない私自身の生い立ちについて、お付き合いいただけると幸いです。1万字弱のかなり長文なのですが、読み進んでもらえるととてもうれしいです! 目次 NUDGEが届けたいもの 褒められたい!が、自分の世界のすべてだった 新卒で勤めたリクルートで、向き合った心の声 26歳で迎えた初めての反抗期 世界一周中で、最も自分に影響を与えた国、インド ありのままで良い 旅の終わりに心を決めた、「インド×ジュエリー」という方向性 ブランド名「NUDGE」と、ブランドコンセプト「BE you」 自己肯定感を分解すると? 自分のすきなものを自分で作るのは、楽しい! NUDGEが届けたいもの ジュエリーブランドを立ち上げたわけですが、私がお客様にお届けしたいのは、モノとしてのジュエリーではなく、ジュエリーを作る体験を通して「自分を生きる」きっかけとパワーです。(もちろん素敵なジュエリーは届けます!)少し抽象的ですが、「自分を生きる」というのは、「自分軸」で生きていること。自分の人生を、自分の軸=自分の心の声に従って、生きている状態。一方、対義は「他人軸」で生きることで、自分の人生を、他人の軸=世の中の常識や価値観、他人からの評価を元に、生きている状態。わかりやすくいうと、人生の選択の基準が、「~したい!」なのか、「~すべき。」なのか、の違いです。私は、長らく自己肯定感の低い人生を歩んできた当本人だからこそ、生きづらさを感じている人が自分軸を取り戻すのに、ジュエリーは素晴らしいツールになる、と思いNUDGEを立ち上げました。 NUDGEは、在庫を一切持たず、LINEでのチャットカウンセリングを通して世界にたったひとつのジュエリーをお客様と作っていく、カスタムジュエリーに特化したブランドです。ジュエリーを作っていく過程そのものが、自分と向き合う機会となればと思っています。具体的には、 ・作る体験:自分を知ること・買う体験:自分で判断すること・身につける体験:存在を認め、自分の在り方を表明すること(詳細については後ほど書きます!) これらの体験を通して、自分を生きる、に近づける人が少しでも周りに増えていけばうれしい。たかがジュエリー、されどジュエリー。ジュエリーというファッションアイテム自体が人の人生を変える、なんて大それたことは言えないですが、ささやかなきっかけや力にはなってくれると自分の過去の経験が物語っています。 褒められたい!が、自分の世界のすべてだった NUDGEに至るまでの話をするとなると、どうしても自分の幼少期にさかのぼります。 私は、ぶれない自分を持っているのに柔和な父と、とにかく子供に対して愛情を惜しまない母と、才能あふれるけどすこし努力が苦手な弟の四人家族で、大阪で育ちました。専業主婦だった母親は、自分の時間を私たちに捧げてくれ、日々のコミュニケーションの中で、私は子どもながらに「頑張ったり、上手くできると、お母さんに褒めてもらえる!」という思いを蓄積していきました。幼稚園でお絵かき上手にできたら、英語で1から10まで数えれたら、かけっこで1番になったら……最初は、褒められると嬉しい!と思ってただけなのに、褒められることが全てのモチベーションの源泉になっていき、小学生・中学生・高校生と成長していくにつれて、「褒められるに値する自分でいないと価値がない」という想いにすり替わっていきました。認めてほしい相手もいつの間にか母親ただ一人でなく、世の中に存在する他者すべて、になっていました。承認欲求の塊です。顔中に、「どや!」「すごいやろ!」「褒めて!」と書いてたと思います。。今思うと本当に恥ずかしい。 承認欲求の奴隷と化した私は、褒められるためにはなんとしてでも頑張るので、学校の成績もそこそこ良く、運動・音楽・美術なども一通り、人並以上にできました。ただ、他者からの相対評価を自分の価値とすることが、自分の首を余計に絞めていったということに当時の自分は気づいていませんでした。常に他者との比較の中で、他者に認めてもらう為に生きる。完全なる、自分軸の消失です。そして、当たり前なのですが、そこそこできるというのは、決して「世界で一番、良く出来る」わけではないので、自分より秀でた人を目の当たりにすると途方もない自己否定や無価値感に打ちのめされていました。 低い自己肯定感を歪んだ自己愛で補うことで、自分の弱さや至らない点はできるだけ人の目にさらされないように、あるいは、どうにか正当な言い訳を用意して、構えていました。(自己愛については、すももさんの記事がかなりわかりやすく解説されています。)生真面目な性格なので、親のアドバイスに忠実に、部活に打ち込み、それなりに勉強し、習い事は一度始めたらできるだけ長く続け、大学も、就職の際に選択肢の多そうな経営学部に進学し、いわゆる大手企業(リクルート)に入社。本当は、心のどこかで、「親の敷いたレールを歩んでいる」というもやもやが、常に頭の片隅にありましたが、得意の自己愛で、「向上心に溢れ、挑戦と成長を続け、常に充実している感」を演出し、自分軸を失っているという事実からは目を背け続けました。 ...
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