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贈与とは。少しずつ受け取り上手になってきた話。

ここ最近なんだかたくさん受け取ってる。
ものも、愛も。

・インド渡航した友人から、タラブックスの絵本
・たくさんの出産祝いや、おさがりとして自分の子供が使わなくなったもの
・NUDGEメンバーや友人が言葉にしてくれた私の強み
・友人と近況報告をしあう時間
・オーダージュエリーへの愛あるレビュー

分かりやすいものだけでもこんなにある。挙げたらキリがない!
幸せ者やなぁと噛み締める。

受け取り上手になってきたここ二年弱

ここ二年弱で、「受け取る」ことが随分と上手になった。素直にありがとうと思えるようになった。giverやtakerなんて言葉があるけど、人から受け取る=giveされるたびに嬉しいけれど、pay backしないと、と焦る自分がいた。(家族やめちゃくちゃ心理的距離の近い友人には甘えて全然返せてないことも多々あり、自己中やなぁと思う。身近な皆さん、ごめんね。)

メンタルモデルでいう「価値なし」のタイプの私は、受け取りすぎることは、自己価値の貯金を減らすことのように感じていた。

▼メンタルモデルとは
個人が経験する痛みから形成される行動パターンや信念体系。四つのタイプに分けられる。その中の「価値なし」モデルは、何か価値を出さないと自分の価値を認めてもらえないと思っている。

【参考】
ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー


できるだけ、「はやく」「受け取った以上に」pay backして精算したい、みたいな気持ちがあったんだと思う。でもとある時、友人とそんな話をしてたら、

「生きていくための空気も水も、当たり前のように地球から無償でgiveされてる」

との言葉をもらった。

地球に対しては負荷をかけすぎないように、住まわせてもらいます、という畏怖の念はあるけれどそれは「与えられたもののお返しとして」感じてる気持ちではなかったので、その言葉を聞いた時に、自己価値を守るために、躍起になって恐怖や義務感で精算するのでなく、自分から溢れた愛のエネルギーで、できるときにできることをgiveあるいは、pay backしようと思うきっかけになった。

「贈与」とは一体どんなシステムなのか

最近「評価と贈与の経済学」という本を読んだ。一部抜粋するので是非読んでほしい。

贈与すること自体が報酬だから、そのお返しを早く・明確に示すことは、贈与してくれたひとが自分に向けてくれた愛をなんだか信じていないことのように思えた。
自分に回ってくる贈与も、自分から誰かへの贈与も、ある種の循環でしかないのだから、その流れの速度については自然なことがとても大事。

努力と報酬は原理的に相関しない。するときもあるかもしれないけど、それは例外。能力と報酬も一致しない。報酬は運である。

運だからこそ、成功したら他人に回さないといけない。運であるものを自分ひとりが取ったらネコババです。で、ネコババはバチが当たりますってのが昔からの教え。自分の成功は自分ひとりで成し遂げたものじゃない、自分がいま手元に持っているものは、自分の専有物じゃなくて、一時的に「託されたもの」だと考えるべきなんです。自分がそこそこ努力して、ある程度の社会的成功を収めて、そこそこ自由に使える資源が手に入ったっていうのは、もともとが自分の力ではない。子どものときには親の世話になったし、友達とか、上司とか、同僚とか、師匠とか、いろんな人の支えがあったからこそ今日の自分があるわけで。だったら、恩には恩を以てお返しをしなければことの筋目が通らない。

もちろん「努力したら、最終的には報酬がある」ということは言ってもいいと思う。でも、どんな報酬がいつもらえるのかは事前には予測できない。ある種の努力をしているうちに、思いもかけないところから、 思いもかけないかたちで「ごほうび」が来る。それはまさに「思いもかけないもの」であって、努力の量に相関するわけじゃない。

「努力した分についてすぐ報酬よこせ」って言っている人は結局「努力した人はどこかで最後に報われる」っていうことをほんとうは信じていない。信じていたら、努力してなかなか報酬がやって来なくても、「そのうち、いいことあるよ」って思っていられるはず。ちょっとやって、「早く、早く」という人は努力の効力も信じてないし、実はろくに努力もしてない。我慢はしたかもしれないけど、努力はしてない。「しなきゃいけない」と言われたことはしたかもしれないけれど、「これがしたい」と思ったことを必死でしたわけじゃない。

なにかを仕上げたときに、それが結果的にどういうアウトカムをもたらすかは相当長いタイムスパンをとらないとわからない。人間の営みとその成果の相関関係なんて、極端な話「棺を蓋いて事定まる」ものなんだから。

これだけ努力したんだから、遅滞なく報酬をよこすように、納品したらすぐ金払え、「キャッシュ・オン・ デリバリー」っていうのは、要するに相手を信じていない人間の言いぐさ。自分の差し出したものと対価の同時交換を求めることは取引をする人間としては実はかなり恥ずかしいこと。いま代金を回収しておかないと、たぶん払ってもらえないと思うから急かすわけなんだから。もし自分の差し出したものが向こうの要求を超えるクオリティのものだったら、「おお、 これはすばらしい、ぜひ次回もお願いしたいものだ」ってなるじゃない。「次はない」と 思っている人間だけが、同時交換・等価交換をうるさく求める。ほんとうに自分の作品の質に自信がある人は「すぐ金払え」とか言わない。

だいたい、努力できる人って「いまオレはすごく努力している」という自尊感情を持った段階で、もうすでにかなりいい気分になっている。実はいろんなかたちで、ぼくたちは報酬をけっこう前払いで受け取ってるんだと思う。

贈与の循環に参加するために、まずは自分が満たされる

たまたま別の友人たちからそれぞれ最近贈ってもらった絵本と、小鳥の鍋つかみはどちらもインドのもので、「青い鳥」がモチーフだった。
こんな偶然ある?

青い鳥は「小さな幸せ」を象徴する。
童話『青い鳥』は兄妹が「幸せの青い鳥」を探して旅に出る物語で、さまざまな場所を訪れ、その先々で青い鳥を見つけるけれど、結局、手に入れることができず。
最後、夢から覚めた2人は、自分たちが飼っていた鳥が美しい青色に変わっていることに気づく。本当の幸福は、実は身近なところにある、というメッセージ。

Giveするにも、Giveされるにも、ヘルシーに贈与の循環に参加するには、「自分が満たされている」という状態がとても大事。
私にとって「満たされている」状態は、「身近な小さな幸せ」に日々気づき、感謝できているとき。この青い鳥たちはお守りとして、日々の私に、「小さな幸せ見落としてないか?」と優しく投げかけてくれそう。なんだか、大切な友人たちにも、見守られている、と愛を感じた。

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