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Journal

臨月の衝動と、色の抜けたワンピース

数日前のこと。朝、お風呂の天井のカビ取りをしてたらカビキラーを顔面と服に浴びた。朝一に化粧して、服を着替えていることなんて、月に数回あるかないかなのに。その日の午後の予定にうきうきしてたから、張り切って朝起きてすぐ、もう外に出れる恰好でいた。その日の朝、私が息子を保育園に送るつもりだった。午前に作り置きご飯をつくってくれる家事代行さんが来てくれる予定で、お願いするための食材を買いに行かないといけなかったからだ。夫にも「買い物ついでに送るわ」と伝えていたはずなのに、ごみ捨てしてる間に帰ったら夫と息子がいなくなっていた。そのせいで、急に空いたこの時間に、思い立ってカビ取りをしたくなった。臨月なのに。わざわざ。(自分のこの衝動性とほんとうにどう付き合ったらよいのでしょう) お風呂に入るたびに天井にはえだしたカビが気になって仕方なかったこの一週間。私はかなり大雑把な性格だし、そもそもカビ取りが好きなわけじゃない。適当にやっていたら、案の定、天井から顔面と服めがけて降ってきたカビキラーの雨。私が着てたのは最近買ったばかりのめちゃくちゃ気に入ったワンピース。見事に胸元の色が抜けてしまった。裾とかならともかく。胸元にドーンと。へこむ。 へこむを通り越して、だんだんと怒りが湧いてきた。 ・買ったばかりだったのに・すごく気に入っていたのに・このワンピース着てマタニティフォトを撮ろうと思ってたのに・やりたくもない家事をやって、こんなことになるなんて・私が保育園送迎してたらこの空き時間はできず、カビ取りなんてしてる予定じゃなかった。→なので夫が悪い(理不尽すぎるにもほどがある) という具合に。ああ、なんて性格が悪いことでしょう。夫よ、ごめん。 それでも「自分の機嫌は自分で取る」精神で、まずは外の空気で頭を冷やそうと、スーパーに行ってみた。食材と共にハーゲンダッツを買って朝から食べてみた。 くう、収まらない。 これは、一人っきりになりたい。すこし非日常の好きな空間で安らぎたい。そう思って、アイスを食べた後、お気に入りのカフェまで足をのばしてみた。ありがたいことに貸し切りで好きな席に座れた。 すこしずつ落ち着いてきた。 ちょっと冷静になってきたので、chatGPTに起こった出来事と今の私の感情、それに加えて、「綺麗な家で過ごしたいけど、掃除はしたくない」のような矛盾した感情との付き合い方について相談してみた。 すると。返答がすごい。最近よく投げかけているからか、間違いなくだんだんと私という人間を理解しだしている。 ________ 「綺麗な家で過ごしたいけど、掃除はしたくない」これは、矛盾じゃなくてとても自然な感情だと思います。私たちの心には、快適さや美しさを求める部分と、労力や危険を避けたいという本能のような部分が同居しているから。 * さて、「どうしたら苦手で嫌なことも前向きに取り組めるか」ですが、いくつかの視点をシェアさせてください。 1. 「嫌なことをする自分」を褒める掃除が好きじゃないのに、自分でやった。これは立派な自己献身であり、愛のかたち。ハイターのしみは、その証。胸を張っていい。まず、そこを認めるところから。 2. 「結果」ではなく「意味」を見つける色が抜けた服は悲しいけど、その服を着て何を感じていたのか、その服を買えた喜び、その時の気持ち…それも全部「生きた証」になってる。嫌な出来事にも、きっと意味があるはずだと信じてみると、感情は少しずつほどけていくかもしれません。 3. 「小さなご褒美」を用意する嫌な家事の後に、好きなお茶を飲む。5分間だけスマホに没頭する。お気に入りの香りを嗅ぐ。「嫌なこと」を「ちょっとだけ楽しみに変える」工夫ができたら、自分への信頼感が増していきます。 4. 「誰かと一緒に」も検討してみる自分しかやらない…と感じたら、時には「助けを求める」ことも自分を守る術。プロに頼んでもいいし、「今日だけ手伝って」と夫に頼んでもいい。それで服が救えたなら…と思うとね。 * マインドフルに生きるって、決して「常に心穏やかでいよう」じゃなくて、「今の自分の本音にちゃんと気づいてあげること」だと私は思っています。「今、わたし、めっちゃ悔しい!服が!もうほんまムカつく!」そんな気持ちも、ぜんぶ抱きしめた先に、本当の意味での"マインドフルな在り方"があるのかもしれません。 * 今日はよく頑張ったね。もし許されるなら、今夜はハイターのことを少し忘れて、好きなお茶でも飲んで、好きな音楽を少しだけ大きめでかけて、「怒ってよかった、落ち込んでよかった、わたし今、生きてるなぁ」って感じてみてもいいかもしれません。服の代わりに、あなたの心が色褪せないことを願っています。________ これを読みながら気持ちの波が、さざ波になっていくのがわかった。そして自分なりの気づきがふたつあった。 まずひとつ。「こんなに心揺さぶられるほど「お気に入り」を購入の基準にできてる自分、良い感じ!」と思えた。 ものを売る側の立場でもあるから、是非迎えてくださった方には愛でてもらいたいと、いつも祈るように送り出している私。だからこそ、私自身、たくさんものを買うタイプでもない。買うときの厳正なる選抜試験をくぐり抜けてきた愛着のあるものに囲まれているというのは、なんだかとても心地よいよな、と思えて、そんな自分のものとの付き合い方を肯定できた。値段や素材だけでなく、自分が感じる価値の軸を磨き続けたい。...

第三子を自宅で産もうと決めました

私、37歳。夫、37歳。第一子、小学一年生7歳、第二子、保育園年中5歳。そんなタイミングで三人目を授かった。元々学生時代から漠然と「いつか親になるなら子は三人」と三人兄弟へ想いを募らせていた私だが、実際に育児が得意で好きとは到底言えないキャパおちょこな気質で、それでいて自分のことが何より大切な私には二歳差の乳幼児の世話は限界だった。三人子供が欲しいという思いは遠い彼方、幻のようにしばらく消えていた。それでも、子供たちが自分でできることが増えてきて、なんとなく育児が楽になってきた上に、自分の年齢も三十代後半に差し掛かり、幻がよみがってきた。「私、昔子供三人欲しいと思ってたなぁ」、と。一昨年あたりから夫にその気持ちをシェアしつつ、あくまで「とはいえ..」が優っていた。けれど、一昨年の暮れにヘルニアを患い、(三週間入院、その後数ヶ月はほぼ引きこもりの大怪我だった)本当に望む生き方を改めて見つめ直した。「生まれ変わった」といっても過言ではないほど、人生のリセットボタンを押すような出来事だった。まさに、禊。それ以降、ずっと仕事に重心を置いていたけれど、暮らしを追求し出した。丁寧な暮らしをしたい、というより、心身ともに健康でいる土台づくりをするには暮らしを丁寧にするしかなかった。そして、それが楽しかった。仕事と暮らしを切り離さず溶け合う生き方を模索しだしたし、実際に少しずつできてきている。そんな過ごし方をしていくうちに家族が増えたら楽しいだろうなぁと、けっこうはっきりくっきり感じ出した。それまで私同様「とはいえ..」と思っていた夫も、確かに上の二人も手が離れてきたし、何よりわたしのご機嫌力が上がってるし、(乳幼児期の私の限界は不機嫌となって現れていた)三人目もありかも!と二人の気持ちが重なりだした。すると、去年八月に家族四人で行ったインド出張から帰ったら、ありがたいことに私たちのところに三人目が来てくれた。 何もかもが初めてで必死だった一人目。上の子もおり余裕のなかった二人目。そして間を開けて、三人目。ようやく純粋に「親であること」を楽しめ、赤ちゃんが可愛くて仕方ない、を味わえる余白が自分にある気がして、今心の底からとっても楽しみで仕方ない。 自宅での出産を決意 そんな三人目。今回は自宅でその命を迎えることに。「日常」の中で子どもを迎えたい。いのち本来の力を、もっと感じてみたい。子どものも、母である私のも。誕生の瞬間に皆が立ち会うことで、これから始まる五人での暮らしを、「全員で取り組む心構え」にできたら。この三つが、今回、自宅出産を決めた理由だ。私が自宅出産への想いをまず持ち、話し合いながら夫の気持ちも擦り合わせて最終的に決めた。 二度の出産と、その選択 これまでの二度の出産は、どちらも里帰り。実家近くの個人クリニックでお世話になった。通っていた高校の近所にあり、そこで産んだ旧友もいた安心感。そして何より、高校生の頃からずっと腰痛持ちだった私は陣痛が腰に及ぼす痛みが想像できず、「無痛分娩の選択肢があること」と「ごはんが美味しいこと」を決め手にそのクリニックを選んだ。結果的に妊娠後期になっても腰痛は悪化せず、無痛といっても「計画無痛分娩」(入院する日を事前に決め、促進剤で陣痛を誘発する。陣痛がきてから麻酔を使う「自然無痛分娩」もあるが、そのクリニックは当時対応してなかった)しかそのクリニックは対応してなかったこともあり、赤ちゃんが生まれたい時に生まれてほしいという思いから、一人目を自然分娩で産んだ。その時体験した陣痛が自分にとっては想像よりは耐えれる痛みだったので、二人目も同様に自然分娩を選択した。 助産院や自宅出産なんて考えもしなかった 一人目の時は人生で起こる初めての体験なので、一般的な選択肢である病院での出産以外を検討すらしなかった。そんな中、一人目の妊娠中に母が参考にとくれた、「大丈夫やで」という、お産と育児の指南書で助産院のことを知った。その著者は坂本フジエさんという助産師さんで、出産や育児への向き合い方のアドバイスと共に、助産所でのお産の様子も紹介されており、読後「助産所」という存在が心の片隅に残った。 大丈夫やで 〜ばあちゃん助産師(せんせい)のお産と育児のはなし〜 そして二人目のときも、当時、一時間ちょっと時間をかけ平日毎日オフィスに出勤し、日を跨ぐ前にどうにか帰宅している夫が、育児参加するのは現実的に難しく、当たり前のように里帰りを判断。一人目出産で特に不満も不自由もなかったので、同じクリニックを脳内自動モードで選んだ。そんなこんなで一人目も二人目も、自宅出産はもちろん、助産院も選択肢には全くなかった。 立ち会いが叶わなかった一人目、叶った二人目 一人目出産のとき、私はインド在住だった。個人的にインドの病院で散々な目にあった経験がったので(インドの医療機関の全てが悪いわけでなく、無事にインドで出産した日本人の友人も何人もいるのだけど)インドでの出産は見送り、日本に一時帰国し、産前産後の8ヶ月間を実家で過ごすことに。陣痛の知らせを受けた夫は、インドから最速のフライトで帰国。でも、上空にいる間に娘は生まれ、立ち会うことは叶わなかった。 二人目のときは、横浜在住。フライングの前駆陣痛に何度も踊らされ、夜中に横浜から車をすっ飛ばした夫が、結局、富士山の麓あたりで引き返したことも今となってはいい思い出。(翌日も普通に出勤してたから相当寝不足やったと思う、よく頑張った。夫。)それでも最終的にはタイミングが合い、今度は無事に立ち会ってもらえた。実家近くのクリニックだったので、子宮口が全開になったタイミングで夫が私の親に連絡を入れ、上の子を連れてきてもらい、家族三人で新しい命を迎えることができた。 夫が泣いてるところを私は二度しか目にしたことがない。一度目はキリマンジャロの登頂目前。全く山頂らしきものがいつまでたっても見当たらず、そろそろ体力気力限界の時、このしんどさは永遠か?と、思わず目に涙。そして二度目が二人目の立ち会いの時だった。結婚式でも一切感傷的にもならなった夫。辛さによる涙しか見たことなかったので、感動でも涙するんやとびっくりした。そのくらい命が生まれるということは、神秘的で劇的で、人生で何回も味わうことができないとっても特別で非日常な出来事なのだと思う。 出産は「非日常」? クリニックでの入院生活は快適だった。特に一人目のときは、何もかもわかっていない初産婦だったので、手厚いサポートがとてもありがたかった。赤ちゃんを預かってくれるし、時間になれば調乳されたミルクと赤ちゃんを部屋に運んでくれる。おっぱいが張ればマッサージもしてくれて、個人病院ならではのサービスで全身オイルマッサージまで!とにかく「休むこと最優先」の五日間だった。 一方で、夫にとっての「出産」とは、「面会」 だった。一日1~2時間だけ病室に来て、赤ちゃんを抱っこし、ミルクをあげ、おむつを替える。訪れては帰って行く、を五日間毎日してくれた。 そう、なんだか、出産自体も出産直後も、入院中は病院にお任せすることも多く、私にとっても、夫にとっては更に、生まれたての我が子との関わりはトリミングされた体験の連続だったなと感じる。だから今回は、切り取られた場面をつぎはぎしていくより、もっと 「家族みんなで引き受ける」 形にしてみたいと思った。 「日常の入り口」としての出産 もちろん、二度の出産が問題なく進んだからこそ、こう思えるのだと思う。妊娠経過に問題はなく、出産も見本のような安産。出産直後、身体も心も特に大きなトラブルを感じずだった。だからこそ、今度は「非日常」ではなく、「日常の入り口」としての出産に挑戦してみたい。 実際、産後スムーズに暮らしに接続していくためには、「しっかり休んで回復」がめちゃくちゃ重要なのも二度の経験で体感してるので、入院の価値もものすごく感じる。できるだけ自然なお産を、と助産院で出産した友人にも意見を聞いたけど、自宅だと全然休めないから後に響かせないためにも助産院がおすすめ!とのリアルな証言に、そうやんなぁ.. と考え込んだ。助産院と自宅出産の違いは、「場所」の違いだけで、立ち会ってくれる助産師さんの数も、設備も何も変わらない。医療介入のない自然なお産だけを目的にするなら助産院で出産・入院で全然よい。子供も含め家族みんなの立ち会いだってできるし、敢えて母子同室を希望してずっと一緒にいることももちろんできる。おいしい食事が据え膳上げ膳で用意されるだけでもめちゃくちゃ意義がある。(夫は料理が苦手なので、五日間の美味しい食事を手放すのは相当惜しい) たった五日なんだから、退院後以降どうせずっと家族五人一緒にいるんだし、助産院で入院した方が夫も本当は気楽だと思う。思うというか、そう言われた。 それでも、自宅で、とやはり決めたのは、お産が非日常の出来事ではあるけど、「日常の入り口」であってほしいから。たった五日、されど五日。「私と赤ちゃん」だけが別の場所にいるのではなく、「夫と上の二人」とも同じ空間で。家族全員が、学校・保育園・仕事など、変わらない日常生活送りながらも、家族が増えるという大きな変化を、日常にできるだけ早く馴染ませて行けたらと思い、出産を「日常」に溶け込ませて体験してみたいと思った。 いのち本来の力を感じてみたい また、自宅出産で、“いのち本来の力”というものを、ピュアに、ダイレクトに、生の形で体感しできるのではという思いもあった。一人目・二人目の出産の前に私はマタニティスイミングのスクールに通っていた。そこでは泳いで体力をつける以外に、お産がスムーズに進むように呼吸法の練習をした。それがめちゃくちゃよかった。力を抜くために息をできるだけ長く吐くこと、陣痛と陣痛の合間は痛みがなくその間に呼吸を整えたらよいこと、特にこの二点は二度の出産を支えてくれた。 「呼吸」を通して、赤ちゃんと自分が協力してお産を進める。その経験が身体に刻まれ、今度は、「呼吸」だけでなく、お産の過ごし方すべてを、自分の身体の感覚を頼りに、主体的に決め、動きたい。その選択の自由のために自宅出産をしたい、と思った。 実際、分娩台もなく、いつも寝ている布団で産むことになる。病院で産んだ時は、ケーブル付きのモニターに繋がり、ベッドから立つこともなかったが、今回は陣痛が来てからも家の中で動くこともできるし、横たわるのか跪くのか、楽な体勢を自分で探すこともできる。きっとおなかの中の赤ちゃんと自分の身体が、その瞬間瞬間の最適解を伝えてくれるはず。もちろんそれを叶えるために大事なのは、妊娠期の過ごし方。毎日の暮らしをどう整えるか。食事、運動、睡眠を整える日々は、身体の小さな声に気づく感度を高める時間でもある。それは、これまで自分を無理に動かしてきた生き方とは逆のベクトルだったかもしれない。身体と心をすこしずつ整えていく、その時間の積み重ねこそが、お産のその瞬間に、いのちの力を引き出すことにつながる——そう直観的に感じていた。   もうすぐ迎えるその日に向けて...

Up to meシリーズ(着せ替えアイテム)開発の誕生秘話

NUDGEで人気のUp to meシリーズ。その日の気分で石やパーツを取り替えたり、組み替えたりできる着せ替えアイテムです。この記事では、三神が3年ほど前にインスタにつづった誕生背景について、彼女の言葉そのままを紹介したいと思います。

ジュエリーコーディネートのヒント(全般編)

みなさん、ジュエリーの身に着け方にマイルールはありますか? 今回は、楽しくジュエリーを取り入れてもらうための5つのヒントをお伝えします! もし、コーディネートのコツがいまいちわからない…という方がいらっしゃれば、ぜひ参考にしていただけると嬉しいです。

ジュエリーの歴史 後編

海外では時代と共にジュエリーの変化がみられましたが、日本は古代から江戸時代末期までポカンとジュエリーの文化が抜けており、独特な歩みがみられます。今回は、日本におけるジュエリーの歴史をさかのぼってみたいと思います。   ◆日本における歴史 古代~戦後 日本では縄文時代、古墳時代の遺跡から、貝殻等で作られた首飾りや腕輪などの装飾品が出土しています。しかしその後、かんざしや飾り櫛はあったものの、海外で広く普及した指輪、ネックレス、イヤリングなどの装飾品は江戸時代末期まで日本に存在しませんでした。 明治時代初期にはようやく上流階級にジュエリーの存在が認知され、ファッションとして徐々に取り入れられるようになり、社会の西洋化とともにジュエリー文化も浸透します。昭和に入ると日本人の中にもジュエリー職人が生まれ国内生産が盛んになり、器用な日本人の気質も相まって製作技術が進展し、ジュエリー文化が一気に発展しました。 1960年代 1960年代、高度経済成長により国内ジュエリー市場は急拡大し、大量生産・大量販売の時代を迎えます。1960年にダイヤモンド、色石の輸入が自由化され、海外からの流入量が増加。この頃から結納に天然石や真珠のジュエリーを使った婚約指輪を添える文化が定着しました。 1969年には銀座ジュエリーマキ1号店がオープンしチェーン店時代に突入。あらゆるファッションブランドがそれまでの伝統的でクラシカルなファッションから変わり、派手な色、デザイン、柄物を発表し、ジュエリーも一目見て存在感のあるものが人気となります。 1970年代 1970年代も引き続きジュエリー市場は拡大し、1972年三越が出資していたティファニー・ジャパンが店舗を増やし、海外ブランドの参入が本格化します。アパレルメーカーが数多く誕生し、大量生産が確立されたことで、小売店も増えトレンドの変化が早くなり、女性向けファッション雑誌も数多く創刊されました。また、海外高級ブランドの人気が高まりジュエリーも豪華なものが好まれるようになった反面、1973年の第一次石油危機やベトナム戦争に影響を受け、ヒッピーに代表される自然志向や倹約主義を求める人々も誕生し、創造的で多様性のあるファッションが生まれました。 イギリスのダイヤモンド販売企業デビアス社が「ダイヤモンドは愛の証」「婚約指輪は給料の3カ月分」というメッセージを大々的に広告したことで、ダイヤモンドの婚約指輪が日本で急速に普及、婚約指輪に占めるダイヤモンドの比率は1960年代の7%から50%を超えるまで激増し、日本人の間でダイヤモンドを贈ることが常識となります。1987年には俳優の郷ひろみさんが二谷友里恵さんと結婚した際に、ダイヤモンドの婚約指輪の値段を「給料の3カ月分」と発言したことも、文化を根付かせた一因といわれています。 1980年~1990年代 1980年代はアパレルがジュエリー業界に相次いで参入しました。1987年新宿ルミネジュエリースクエアがオープンするなど、ファッションビルのテナントでジュエリーが販売されるようになり、より一般顧客にとって身近な存在となります。 バブル景気でブランド志向が強まる中、1985年男女雇用機会均等法が制定され女性の社会進出が進んだことで、贈答用に限らず女性が自ら気に入ったジュエリーを大量に購入するようになりました。バブル崩壊前後の1991年までジュエリー市場の拡大は続き、市場規模は年商3兆円、女性一人当たりのジュエリー購買額で世界一位となります。旺盛な需要に応えるため企業は同じデザインのジュエリーを大量に製造していきました。 2000年代以降 バブル崩壊後ジュエリー市場は急速に縮小し、2000年代には市場規模が年商1兆円、ピーク時の1/3まで後退します。その間ジュエリー企業の倒産、破産、買収が相次ぎました。2001年米国同時多発テロの影響で婚約指輪がよく売れ、同年の年末商戦では高額品も好調でしたが、市場全体を盛り上げる程のインパクトはありませんでした。 ジュエリー市場が縮小した背景には、経済が後退したためだけではなく、カリスマ的なファッションリーダーが不在となり読者モデルを参考にするなどファッションが多様化していく中で、大量生産のジュエリーに消費者が飽きてしまったことも関係しているといわれています。2000年にはソフトバンクがダイヤモンドドットコムでジュエリー業界に参入、インターネットの普及により洋服だけではなくジュエリーもネット販売が行われるようになります。 2008年にはリーマンショック、世界同時不況を契機にファストファッションブームが起きます。UNIQLO、GAP、ZARA、H&Mなど、トレンドを取り入れた上で安価に売り出すブランドが台頭したことで、ジュエリーも低価格競争が起きました。2009年にはアマゾンが宝飾品ネット販売を開始し、販売チャネルの多様化も進みます。2013年頃からは景気回復と訪日外国人が急増したことで再び高額品の販売が伸びたものの、2016年にはアベノミクス失速によりインバウンド需要が落ち込み、インポートブランドも相次いで値下げを行いました。   2010年代は、世界のファッション業界で多様性、包括性が重視され、人種、性別、体形、年齢に関係なく開かれたファッション活動が行われ、日本でもプラスサイズのモデルを起用される等の変化が起きました。またSNSの発達により消費者が簡単に情報を入手できるようになり、ジュエリーもブランド名だけではなくメッセージ性のある無名ブランドにも焦点が当たるようになってきました。 そんな中、NUDGEは2019年に生まれております。まだまだ新しいブランドですので、今後の展開にご期待ください! いかがでしたでしょうか? 今ではジュエリーが当たり前に使われていますが、日本では明治時代頃まで浸透していなかったというのは不思議な感じですよね。そして現在は多様性の時代。ジュエリーを持つ意味も、人それぞれオリジナルでよいのだなと思いました。  文責:三神 将明  『ジュエリーの歴史 前編』はこちら    

ジュエリーの歴史 前編

普段何気なく身につけているジュエリー。ファッション、思い出、資産のためなど、あなたはどの様な理由でジュエリーをお持ちですか? 人とジュエリーのお付き合いは長く、古代まで遡ります。今回は時代の流れに沿ってその役割がどう変遷したのか、紐解いてみましょう。   ◆世界における歴史 古代~18世紀 ジュエリーは身を飾るものという意味で「装身具」と呼ばれ、モノで身を飾る文化の無かった古代人が刺青や歯を削る「身体変工」を施したことが最初といわれています。その役割は悪霊から身を守る護符、遊びの一種、他人との違いを表すものなど、所説あります。 古代エジプトの遺跡からはトルコ石やラピスラズリなどの天然石を使用した装飾品が発掘されており、「王」が登場すると支配者が「神」の代理として権威を誇示するため装飾品で盛大に身を飾るようになったと考えられます。 その後ローマ帝国の繁栄と共に装飾品はファッションの一部として欧州の一般大衆に広まりましたが、キリスト教が国教に指定されると、威厳を示すための道具として豪華絢爛な装飾品が発達し教会や聖職者に奉納され、ファッションとしての役割よりも資産的価値があるものとして扱われるようになりました。 ルネサンスの時代に入ると、王侯貴族社会が誕生し装飾品は貴族階級の「特定の人物を飾るもの」として広く普及します。   19世紀 19世紀にはイギリスの産業革命で資産を手にした成金が家族や愛人のために大金で装飾品を購入したため、新たな市場が誕生し徐々に装飾品が大衆へ広まりました。  この時代は金価格が上昇、金の使用量を減らすために繊細な金細工技術が発達し、また海外からイギリスへ新しい文化や素材が持ち込まれたことにより新たなデザインが開発されます。現在「アンティークジュエリー」と呼ばれるものは、この時代の作品が多いです。王侯貴族時代はサイズの大きい装飾品が好まれましたが、大衆へ広まるにつれてサイズは小型化します。  19世紀終盤にはジュエリーの大衆化がますます進み、それまでは顧客要望に沿ったオーダーメイドで製造されていたものが量産化され、宝石店も既製品の販売を行うようになりました。 そして量産品を販売するため、新聞広告やジュエリーカタログが使われるようになります。街中ではガス灯照明と板ガラスが普及したことで、夜でも商店街で買い物がされるようになりましたが、あまり明るくは無いため少ない光でも存在感がある色石や真珠を使ったジュエリーが中心で、ダイヤモンドは多く使用されていませんでした。   20世紀  20世紀に入ると、世界大戦を経て女性が自ら働き稼いだお金を自分で使える時代へ。女性のファッションは男性に代わり働くためロングスカートから膝丈スカートや直線裁ちの男性的衣服が登場。それに伴いジュエリーもサイズの小型化、直線や幾何学模様を用いたデザインが好まれるようになります。それまで欧州中心であったジュエリー市場がアメリカを中心に伸び、工業製品化が進んだことで大量生産、大量販売される様になりました。   神々のため、王侯貴族のため、そして庶民のものへ。歴史を知ると、ジュエリーへどの様な想いを載せて持とうか、改めて考える機会となりました。 ここまで世界の歴史を振り返りましたが、日本はどのような歩みを進めてきたのか。後編でご紹介させて頂こうと思います。    『ジュエリーの歴史 後編』はこちら    

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