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私の身体は私のもの?

先日、8月頭にした指の怪我を振り返っているときに、「私の身体って自己管理しているようにみえて、誰かのサポートありきで成り立っている」と感じました。

怪我をしたときに、子供たちを引き受けて見守ってくれたスイミングスクールのスタッフさん。(スイミングスクールのエントランスで負傷)
毎度病院へ運んでくれたり、生活支援をしてくれる夫。
怪我について意見を持ち合わせているプロフェッショナルな先生方や友人。
自分の生活も赤ちゃんの世話も困難だったときに助けてくださった産後ケア施設の皆さま。

だれが欠けても、私の身体って、今この状態でいることができない。身体に対して、周りの人たちや環境の作用がとっても大きい。
身体は私の所有物ではなく、複数の生命体(今回だと、家族や先生など)が織りなす生命現象そのものなのではないか。
そう考えると、「自分の身体は自分のもの?」という哲学的な問いがふつふつと湧き、この疑問をChatGPTに投げかけてみたところ、とても興味深い対話が生まれました。いくつかの書籍も読み、思索が深まったので、ここにまとめてみます。



生物学的な視点から

 

生物学的に見れば、私たちの身体は私だけのものではありません。私たちの身体は、自己でありながら、同時に自己ではないものの集合です。

人間の細胞の倍ほどの数の微生物たち(腸内細菌や皮膚の常在菌など)が共に生きています。つまり、私たちの身体は一つの「個体」ではなく、「生態系(ecosystem)」。私たちは彼らと一体となって生きる「超個体(superorganism)」なのです。



身体は、世界と共に呼吸している

これらの微生物は、ただ存在しているだけではありません。
食べ物の消化、ビタミンの合成、免疫の教育、病原菌からの防御、さらには心の状態や思考のリズムにまで影響を及ぼしています。

腸と脳が密接に影響し合うことを「腸脳相関」と呼びますが、つまりのあり方も、身体の共生世界の一部なのです。

体内で最も菌が存在するのは腸。女性の場合、腸のすぐ近くには子宮がありますが、子宮内は基本的に無菌。そのため、母親の胎内にいるあいだ、赤ちゃんの身体も無菌です。

産まれる瞬間、産道を通るとき——
それが赤ちゃんにとって初めて菌と出会う瞬間です。
母親の菌を受け取り、その後も空気、母乳、肌との触れ合いを通して多くの菌と出会います。菌との出会いこそが、生命の最初のコミュニケーション。そこから、人と微生物は互いに譲り合いながら、ひとつの生態系として共に育っていきます。



変わり続ける「わたし」

常在菌のバランスは、食事、ストレス、薬、年齢、運動など、日々の生活によって絶えず変化します。
発酵食品や繊維は腸の仲間たちのエサになり、ストレスや抗生物質はその世界を乱します。

私たちは固定された「私」ではなく、毎瞬、環境との関係の中で組み替えられていく存在。身体は、世界との出会いの記録そのものなのです。


 遺伝子も私だけのものではない

私たちの身体をかたちづくる設計図——DNA
それは、私という個人に属する所有物ではありません。
遺伝子は、遠い祖先から脈々と受け継がれ、数えきれない世代の記憶を内にたたえています。親から子へ、子から次の生命へ。

それは「生命という物語」の中で、絶えず書き換えられながら受け継がれていくパターン。DNAは、個人の終わりで途切れることなく、種を超えて、地球というひとつの生命網の中を流れ続けています。わたしたちは、生命の川の中に立つ瞬間の形にすぎないのかもしれません。

 

ホメオスタシス ——流れの中で生きる

私たちの身体は、いつも一定の状態を保とうとします。
体温、血糖、心拍、呼吸——
それを「ホメオスタシス(恒常性)」と呼びます。

けれど、その安定は閉じたシステムの中では成り立ちません。外の空気を吸い込み、食べものを取り入れ、不要になったものを排出しながら、わたしたちは絶えず世界とやりとりをして生きています。

深呼吸のたびに、肺の中を行き交う酸素と二酸化炭素。
食卓で口にする果実や穀物は、太陽の光や雨、
大地の栄養を受け取って育ったもの。

わたしたちは世界そのものを身体の中に迎え入れ、また世界へと還している。この循環の中でしか、身体という秩序は保てません。


 

■ 哲学的な視点から

 

実存の観点から見ると、「私の身体は私のもの」という言葉は、意識が自分という輪郭を確認するための宣言にすぎません。

「痛みを感じるのは私」「息をするのは私」。
確かに、身体は私という意識の中心にあるように感じます。
体験としての身体は私のもの

しかし同時に、それは私の意志ではどうにもならない自然でもあります。
たとえば、心臓を動かすことも、細胞を分裂させることも、老いていく時間を止めることも、私たちの意志では制御できません。
身体は、私という存在の中にある自然そのもの。自分の中に小さな宇宙があり、それが自らのリズムで動いている。そのリズムに、私の意志はただ乗っているにすぎないのです。


近代哲学の父・デカルトが説いた「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」において、人間は「思考する主体(心)」と「延長する客体(身体)」に分けられました。
この分離によって、身体は「操作・管理の対象」として扱えるモノになります。
現代社会の「身体=自己の所有物」「身体は私のもの」という感覚は、このデカルト的二元論の影響下にあると言えるでしょう。

20世紀に入って、メルロ=ポンティはこれを根底から問い直しました。彼にとって身体は、意識のではなく、世界と出会うための存在の形式そのもの

「私は身体を持っているのではなく、私は身体である。」

たとえば「痛い」と感じるとき、私と身体のあいだに距離はありません。
身体を「所有」しているのではなく、身体という現れ方でしか私の存在は成り立たない。身体は、世界との接点であり、世界を感じ取る窓なのです。

ハイデガーは、人間の存在を「投げ込まれた存在(Geworfenheit)」と呼びました。
私たちは自分で生まれる時代・身体・性別・国籍を選べず、すでに世界の中に投げ込まれている”のです
身体は「自分で選んだ所有物」ではなく、「存在の条件そのもの」。この身体をどう生きるかが、「実存」という営みになるのです。

ニーチェはさらに根源的に言いました。
「心」こそ身体の一部であり、身体の欲望や衝動こそが本来的な知。

身体は大いなる理性であり、心はその道具にすぎない。」

意識や理性を主人とみなす近代の発想を転倒させ、身体を生命の意志(生の力そのもの)として讃えました。つまり、「私の身体」ではなく、「身体が私を生きている」。

現代においては、ドナ・ハラウェイ(『サイボーグ宣言』)らの生態哲学が、身体を「人間だけのもの」ではなく、機械・環境・他者・微生物との連続的ネットワークとして捉えます。
「私の身体」はすでに、空気・菌・言葉・他者のまなざしに貫かれた共有領域。もはや「私のもの」という所有の語法そのものが崩れつつあるのです。私たちの身体は、自然や他の生命、空気や時間との境界の中で、絶えず入れ替わりながら存在する奇跡なのです。


 

■ 身体と自然の関係

 

スピノザ(17世紀オランダの哲学者)は、神を人格的な存在ではなく、自然そのもの(Deus sive Natura)定義しました。つまり、「神=自然=存在全体」。人間も自然の一部であり、身体もまた神の様態にすぎません。

「人間は自然の中の一つの表現である。
人間の身体も心も、神=自然の無限の様態の一つである。」

ここでの身体は、神から与えられたものでも私が所有するものでもなく、自然が自らを表現する一つの形なのです。
この考えを生物学に引き寄せると、DNAや代謝、進化、死と再生というプロセスが、「神=自然の自己表現」として読めます。つまり、身体は「個人のもの」ではなく、宇宙の一部として働く自然の出来事なのです。


仏教もまた、「自己」という固定的な存在を否定します。
「すべての存在は縁によって起こり、縁によって滅する(諸行無常・縁起)。」

身体もまた、親からの遺伝、食べたもの、呼吸した空気、そして他者との関係によって今この形を取っています。つまり、身体とは「独立した私」ではなく、無数の関係が一瞬集まった現象「私の身体」という所有の感覚は、この流れを一時的に切り取った錯覚にすぎません。

仏教的にいえば——
身体は「私のもの」ではなく、「私という幻想が依りかかっている現象」。
それでもなお、この身体を通して苦しみ、喜び、目覚めることができる。
この「空でありながら現れる」存在のあり方が、仏教的身体観の核心にあります。


 

おわりに

 

「私の身体は私のもの?」

生物学が「身体は流れの中の生態系」と言うように、哲学もまた「身体は境界をもたない実存」と語ります。

身体は所有するものではなく、生きることそのもの。私の身体は、私だけのものではない。生命の大いなる流れが、「私」という一瞬の形をとっていると考えると、形を持つ肉体に対して不思議な感覚が湧きます。
同時に、自分自身の在り方の答え合わせを「身体」でできるとも感じます。

この身体を所有物としてではなく、宇宙の呼吸の一部として感じられたとき、わたしたちは、私という生命を生きると同時に、世界に生かされている存在”だと、自然や宇宙と調和しながら過ごす糸口となりそうです。

 

参考文献)
季刊書籍「自然栽培」vol.15
「心と身体の哲学」勁草書房

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